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【幸せ作りのお手伝い】2024年9月18日号No.331『私の変わった趣味(古代史年表作りと神社巡り)』シリーズ 年表のみ 別資料

BC 57頃? 日本の与謝郡から、招聘された朴(=瓢箪=与謝)氏が初代の王となり斯蘆国(シロコク/新羅)建国。名を赫居世(カクキョセイ)という。
: (『三国史記』「新羅本紀」)

AD57 斯蘆国(シロコク=新羅),04日本の但馬or丹波の国から、昔氏の脱解((ダッカイ)が、
子供が小さかった朴氏 儒理(ジュリ)王から頼まれて、一代限りのショートリリーフ王となる。在位はAD57~87。

AD110頃 神武の父親の山彦(彦火火出見命(ひこほほでみ:火遠理命)誕生

AD135頃 神武誕生

AD150頃から 異常気象続発 筑後川沿岸に大洪水発生?

AD154 斯蘆国(シロコク)朴氏系08阿達羅王(アダラオウ)(在位:154-184)即位

AD155?  事代主(AD130?~)が三島湟咋(ミシマミゾクイ)の娘の玉櫛姫(タマグシヒメ:AD135?~)を妻とする。
子供は、姫蹈鞴五十鈴姫(ヒメタタライスズヒメ:AD156~神武天皇の后)、
鴨主王(AD158?~:迦毛大御神(カモノオオミカミ)=天日方奇日方命(アメノヒカタ クシヒカタノミコト)

■冨田妄想:出雲族の交易市場が、開削した保津峡の出口である、
松尾大社付近にあったのではないか?事代主はこの出城にいたのではないか?

AD157  辰韓(新羅・斯蘆国(シロコク))08阿達羅王(朴氏系)皇太子夫婦の、延烏郎(ヨンオラン)と細烏女(セオニョ)が、
東海の浜辺から、岩船に乗って倭国に移動。延烏郎は倭国で国王となった。
(三国遺事)この後、辰韓国では9~12代まで、丹後から招聘された朴氏に代わって、
但馬国豊岡?から招聘されたショートリリーフの昔氏が、王を出す。
以降、13代金氏、14~17代昔氏、18~52代金氏、53代になって朴氏が神徳王AD913~917)を出し,
53~55代まで続くが、高麗国により新羅が滅亡した時の56代敬順王(AD927-935)は金氏となっている。
※神武は22歳位

AD158 倭国・斯蘆国などで皆既日食

AD158? 福岡県田川郡香春町(カワラマチ)に、朝鮮半島南部から天日槍(アメノヒボコ)渡来。
天日槍とは、太陽の光を受けて輝く鉄製?の刃を持つ戈・・・の意味か?
斯蘆国(シロコク)の蔚山(ウルサン)は、鉄鉱石の産地である。
金辺川のほとりに住んで、香春岳の鉄・金・銅などの鉱物資源を採掘。
その後、火山の火口原の鉱物を追って九州を南下?
香春(カワラ)神社の宮司家である赤染(アカゾメ)姓・靏(ツル)姓は、
現在、福岡県香春郡と宮崎県都城市と大阪府泉佐野市にのみ分布する。
天日槍(アメノヒボコ)とは、朴氏阿達羅王(アダラオウ)皇太子の延烏郎であるのかもしれない。
※神武23歳位

AD174 神武東征開始(甲寅年)・記紀に各地の戦いの記録あり(疑わしい)。
※神武が奈良盆地に入った時の年齢が40歳を越えていたと伝わる。
仮に、延烏郎(よんおらん)=神武とすれば、延烏郎(よんおらん)渡来157年から17年後に東征を開始したことになる。
※神武39歳位

AD174~180?(神話)出雲の国譲り(実際は、AD100頃に博多平野那賀川中流域で起きた話)
年代から考えると、大己貴命(大国主Ⅱ)の国譲りは、亀岡市の出雲大神宮(丹波国一之宮)が鎮座する、千歳出雲であった可能性もある。
当時亀岡盆地は、丹波湖と呼ばれる湖が、大国主Ⅱによって干拓され、稲作が始まっていた時代である。

AD174 大物主命(事代主・大山咋神(オオヤマクイ)の息子の長髄彦と、饒速日(ニギハヤヒ)の息子で、
大物主命(事代主・大山咋神(オオヤマクイ)の娘婿の宇麻志麻遅命(ウマシマデ)は、
生駒山西麓の河内湾沿いの孔舎衙(クサエ)から攻めて来た神武東征軍を撃退。
※饒速日が既に鉄器(砂鉄原料)を、摂津三島地方や奈良盆地に広めていたため、新羅国からの鉄器で武装していた神武軍であったが、苦戦となった?

AD175頃 01神武天皇即位(AD175-194) ※神武40歳位
※神武が孔舎衙(クサエ)での敗戦以降に通った熊野は吉野川上流の熊野であり、熊野川沿いの熊野ではない。(宝賀寿男:神武東征の原像)
生駒の孔舎衙から南下し、阪南市男里川を東に遡上し、山中渓を越えて紀ノ川沿いの岩出に出て紀ノ川を遡上。
奈良県に入り紀ノ川は吉野川と名を変えるが、その上流の国栖から津風呂川を遡上、
『大熊野』→宇賀志→高倉山東麓を北に進み、高塚を過ぎて、伊那佐山・墨坂神社を右に見ながら、
宇陀川を遡上し、西に向かって雨師・女寄峠・半坂・押坂を過ぎると、外山(トビ:三輪の南)に出る。
ここから耳成と香久山の間を西に進むと畝傍山の北の、神武が即位した場所周辺の山本に出る。
確かに、熊野から山を越えて奈良に入るというのは、非現実的である。(冨田)
※トベ(女性首長・女王)について
大和朝廷以前の日本国内には戸辨(とべ)と呼ばれる女王国が多数あった。これは倭族の伝統であると考えられる。
神武天皇時代に大和王権に服従しなかった女性首長は、以下の通り。(縄文時代の日本人の主要ルーツは江南の倭族で母系社会。
女性が家を継いでいき、男は獣魚などの食料を女性に貢ぐ形態。平安時代まで続く通い婚の伝統もここにある)
・紀ノ川河口のナグサトベ(名草戸畔)
・熊野地方のニシキトベ(丹敷戸畔)
・大和国層富県(ソホノアガタ) のニキトベ(新城戸畔)

AD177 饒速日の子、宇麻志麻遅命(ウマシマデ:生没155?-210?)が、尾張国・美濃国・越国を平定。
※神武後継争いで、手研耳側に付いた結果、追放された可能性り。
最終的には、石見国大田市の物部神社に埋葬される。

AD180  寒冷化のピーク(小氷河期),寒冷化終了はAD700頃

AD184 黄巾の乱:中国後漢(光和6)末期に、太平道の張角がおこした内乱。

AD185頃 神武没?(50歳で亡くなったとすれば・・・)

AD193 卑弥呼(AD193-243)生まれる

◆AD195 【 2.綏靖天皇即位:AD195~203】
后:川俣姫、01神武天皇と姫蹈鞴五十鈴媛の子
※手研耳命摂政期間が数年あるならば、空位期間がある。

◇AD196 昔氏の10奈解尼師今(ナカイニシキン)が辰韓国王になる(AD196~230)

AD198 高句麗、丸都城築城

AD200頃 「魏略」編纂 倭人の出自は「中国の呉の国の祖、太伯之後」だと、倭人
が自称している記事。これは下関周辺での話をまとめた時の記述。

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